昭和50年03月27日 朝の御理解



 御理解 第48節
 「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」

 おかげを受ける秘訣の様な事だと思うのてすけれども、矢張り秘訣と言うのですから、そう簡単には解りません。教えてはこの様にして貰える。是が信心の要諦だ是が秘訣だと教えられても、それを実行しそれを自分のものにすると言う事は難しい。だからそういう心持ちにならせて頂ける事が、おかげの秘訣であるならば、そういう心の状態になる事を稽古しなけれはならない。
 例えて言うとうろたえてはならん。それこそ子供が言う事を聞かぬ時に、それこそ構わんぞと、知らんぞという時の様な心持というですか、是がおかげを頂く秘訣なんです。けれどもそれが実際に自分のものになると言う事は、稽古しなければ出来る事じゃないです。うろたえるなと言われてもうろたえるのです。一つの成程そうだと放っておける様な心持ちになるという稽古と言う事は、やっぱり稽古に稽古を積んで、神様の御働きの間違いなさというか、この神様にお縋りをしてからの事ならば。
 右左はお任せすると言った様な、お任せが出来る様な心の状態というものが、いつも間にか段々身に付いてくるという信心。それには中々是は秘訣なのです。だからそれを体得する稽古をさせて貰わなきゃならん。放って置く様な気になって信心してやれ。放っておけというのじゃない。放って置く様な気になって信心してやれ、おかげは受けられる。見やすいようで大変難しい。
 例えば病気でも心病まなければ病気に非ず、と言う様な事を言うておられる先生が居られますですね。病にかかっても心病む事なければ、病気というにあらずと言っておられます。難しいですよね。私が糖尿病と腎臓という病気。けれども私が糖尿病とは思っていない。所が実際は糖尿病の症状、腎臓の症状というのはある。顔がちょっと腫れましたり、又は沢山お水を頂いたり。にも拘らず私の心の中には、糖尿病という名の神様の御都合だと頂いているんです。
 これは皆さんが、成程と言うて下さるでしょうけれども、その心持ちになると言う事は、一時二時で出来る事じゃないと思うです。だからこそ甘いものも食べれば、辛いものも頂く。腎臓にいけないものでも糖尿病には、絶対食べたらいけんと言われるものでも、食べもすりゃ飲みもする。それは神様の心が病んでないからです。そう言う様な心が横着だから、そういうふうに考えるというのではない。神様の働きの間違いなさが、段々段々解って来れば来るほど、成程御都合と言わなければおられない事がある。
 だから放っておけるのございます。さあもう一ぺん診察して見らんでよかろうか。時にはお薬を飲まんでよかろうかというのではなくて、いうならば放っておくと言う事は、だから稽古に稽古を積まなければならないと言う事になります。病気を病気と見るというのでは、矢張りその病気の養生をしなければいけません。大変見やすいようで難しい、難しいようでそこの所が身に付いて行くから、信心は素晴らしいのであり楽しいのである。だから素晴らしいおかげも受けられるのだ。
 例えばこの四十八節を大変、一番ギリギリ難かしゅう頂いたら、今日私が申し上げるような事になります。おかげを頂く一つの要諦秘訣である。どうぞおかげを頂かせて下さい。そこに苦しい事があるならその苦しい事から逃れたい、逃れたいと思うて一生懸命お願いするのです。又はそれこそ咄嗟にうろたえなければならない様な時でも、うろたえたんでは、日頃信心しておる値打ちはないと言われても、うろたえなければおられないと言う事では、自分の信心の目当てというものがです。
 日頃本当な所に目当てを置いての信心ではない。放っておく様な気になって信心してやれ。それはどういうふうにしてそういう信心というのは、身に付いていくのだろうかやっぱり私は辛抱だと思う。教祖様の御時代に、目の見えない人が開眼のおかげを頂きたいというて参ってきた。そこで教祖様は三年間の日を切って願われた。熱心に三年間お参りされた。所が目は開かなかった。それで又三年日を切られた。一生懸命六年間参り続けた。それでも尚且つ目は開かなかった。
 教祖様は又三年日切りのおかげを願われた。所が六年お参りしておるうちに信心が解って来た。吉井の熊谷さんが、息子さんの大学受験の事で、とにかく試験が受かりさえすれば、受かるように受かるようにと言うて、一生懸命一年間お参りをされた。それも奇跡を願うと言う様な意味じゃなかった。高校を出られる時にある意味合いでは、太鼓判を押すように言われて大学の試験が出来ると言われる位だから、ある意味で自信もあった。所が出来なかった。それから又二年又出来なかった。
 三年目にようやく通った。それこそ先日からも言うて居られた様に、信心が解ると言う事は、本当に有難く恥を掻かせて頂かなければ、本当のおかげにはならないという意味の事を、先日久富勇所にお話に行かれた時に話されたと言う。久富さん達ご夫婦あれただけ熱心な信心してござってから、どうして二人共あんなに病気が悪い。奥さんなんかは寝たっきりで、しかも毎日苦しい所を通っておられる。
 あれ程しの信心が出来ておるのに、金光様も良い加減なものじゃあると言うて、笑いよる人も幾らもある事が、実際に言う人もありゃそれが聞こえて来る。それが神様に対して相済まんと言うておるけれども、いうならば恥ずかしいという意味の事を、病人さんが話したらしいです。それで熊谷さんがその事を話された。私も則郎が試験に今年も出来ん、又今年も出来んという時にはです、一年目はそげんでもなかったけれども、二年目には表通りは通ろうごとなかごたった。
 人から聞かれるのが恥ずかしゅうて応えじゃった。所が三年目にならせて頂いたらです、はぁ神様がおかげ下さらなかった筈だというものが解ったち言う。試験に合格したなら吉井から当時の椛目まで、毎日毎日参らんでんよか試験が出来さえすりゃ、こげん朝から参らんでんあの時分は久大線で参ってきよんなさいました。草野の駅から椛目までは歩くそれは真っ暗な中を歩いてくる。歩いてくる中には随分色々な事があったりした。それでも一つの根性ですね。
 参り続けられたそして息子が見事に大学に通らせて頂いたら、こげな信心はせんでもよか。それは信心は辞めはせんだろうけれども、こげな修行はせんでんよかというような気持ちであった。そこが、わかられた。しかもその間にはそれこそ恥をかく様な思いであった。所が三年目に入った時にはです、もう人が止めろというても止められないという信心が身についてきた。それが言われるばかりじゃなくて、現在の熊谷さんの信心を見たら、そうでしょうが。朝だけではない夜も参ってきなさる。
 昼の会合があればもう絶対、色んな会合に出てくる。日に三回もお参りされるような事は珍しくはない。信心をしてやれという信心が、子供の為に出来たんです。則郎さんの為に、一年目、まぁ来年には通るだろうと、簡単な気持ちで、まあ一年一生懸命参ろう。二年目には、恥をかきかき参った。三年目には、そげな事は問題じゃなくなってきた。信心の有難さというものが、もう止めろと言うても止められんと言う事になってきた。教祖様の時代にその開眼のおかげを願って、参ってきたきた信者さんもやっぱりそうであった。三年三年又三年と、この事を言っておられます。三年三年又三年六年が終わって又三年の九年目に、六年目から七年目に入った頃には、それこそこの目が開かんでも是ほどに心の目が開けてきたのだから、目は開かんでもよかと有り難い信心になって行かれた。おかげで九年目に目が開いた。
 これは吉井の熊谷さんの場合でも同じであった。一年二年初めは只合格のおかげを頂く事。所が二年目には恥かく二年目であった。三年目はそう言う事は問題ではない。出来る出来んは問題ではない程しに信心が身について来られた。止めろと言うても止められない事になった印が、今日あの様な信心が出来ておられる所から見てもです。如何に神様が願っておられる、求めておられるものは何処かと言う事が解るでしょう。神様が願っておられる、氏子に願っておられる所は、只目が開くと言う事だけではない。大学が通るという事だけじゃないという事。
 そして三年目に見事合格ささた時の、おかげの状態後先のおかげ、成程三年後でなからなければいけないと言う様な事が、はっきり解って来た。だから信心というものは取って付けた様に、これば頂きさえすればと言う様な事だけで参ったってつまらんて。信心はとにかく一生掛りのものなのだ。何故ってあなたあの世にも持って行け、この世にも残しておけるという程しのもの。
 あの世に持っていけると言う事は、永劫助かる事が出来るという程しのもの。この世での五十年百まで生きた所で百年間というものは、神様の目からするならば瞬きをする暇の事なのです。この世には信心しげに来とると。この世には信心によって徳を受けに来ておるのはこの世なんだ。その徳を受ける事が今踏んまえておる所の難儀、悩みと言った様なものを通して分からせて頂こうと言うのですから、目先目先の信心では近視眼的な見方では本当の信心は解りません。おかげは解りません。
 今日私はこの四十八節を、大変難しい角度から皆さんに聞いて頂いた。ははぁ成程自分の子供が具合が悪かったという時に、うろたえちゃいかんばいな。それこそ放っておくような言う事を聞かん時には構わんぞと。ははぁあの心持ちで信心しておればおかげが頂くなと。只そういうふうに通り一遍に秘訣を教えて頂いても、それは身につかなければいけません。その身に付くと言う事が、熊谷さんの場合は一年かかり二年かかり、三年目に入った時分に、もう止められんという信心が身についてきた。
 一遍参る所じゃない。三里の道をあのお年で合楽通いが楽しゅうて有難うしてと言う事になってきた。手足の動く限りは是が続けられる事に違いありません。三年三年又三年、如何にも九年もかかったごとあるけれども、たった九年間の間にです、止められない程しの徳を受けおかげを受ける。それがあの世にも持って行けると言う事になるのですから、実を言うたら大変元を入れた様であって、その位な元で私共の生涯の助かり。あの世までもの助かりというものが頂けるとするならば、こんな見やすいいうならば楽しゅうて、有難うしてという信心が続けられるようなおかげを頂かなければならん。
 言う事を聞かん。それを神様が言う事を聞いて下さらん時という風に頂いても良いのです。願っても願っても反対にむしろ右と願えば左に、左と願えは右だから本当にこげん恥をかいて神様も本当に、こげな恥をかかせてと思うような位の事ではです。それこそかかせなさる恥なら、一つ有難かかせて頂こうと言う様な姿勢が出来た時に、初めて儘よと言った様な心とでも申しましょうか、放っておく様な心とはそういう心だと思うですね。
   どうぞ。